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津和野・萩・山口・秋芳洞・下関・門司 (ATT.JAPAN ISSUE 32)

Travel

UpdateFebruary 26, 2018
ReleaseFebruary 26, 2018

本州の西端と北九州をめぐる旅をご紹介する。

津和野
赤い屋根と白い壁が美しい津和野の町。この町出身の画家、安野光雅の描くイタリアやオランダの町々の絵のようだ。外国の風景なのに安野さんの絵が懐かしく、ノスタルジアをかきたてるのはそこにいつもふるさとがひそんでいるからではなかろうか。

見どころ
スリ鉢の底のような小盆地。西の山上に城の石垣、向き合った東の山は青野山。文豪森鴎外の生まれた町でもある。津和野の石州和紙は一時期、藩の専売となっていた伝統工芸品。田畑の少ない津和野藩では米の代わりに紙を年貢として出すことが奨励されていた。丈夫で虫に強く紙質がすぐれている石見の紙は、とりわけ商家の大福帳に使われた。

津和野城跡
城跡からは赤い石州瓦の屋根が美しい津和野のまちを一望できる。山頂に石垣を築いた城は珍しい。

殿町通り、本町通り
城下町の雰囲気を強く残すエリア。武家屋敷の門や土塀が残る。古い商家を利用した雰囲気のある店も多い。タカツヤ伊藤薬局、華泉酒造、海老舎。掘割には鯉が泳ぐ。津和野カトリック教会の聖堂は畳敷き。

安野光雅美術館
淡い色調の水彩で、やさしい風合いの作品を描き続ける安野光雅の絵を収めたナマコ壁スタイルのしゃれた美術館。昔懐かしい教室や図書室も再現。プラネタリウムもある。

津和野葛飾北斎美術館
初刷りの「北斎漫画」が発見されたのが津和野。版画、版本から肉筆画まで弟子たちのものも含め1000点あまりが所蔵されている。

太鼓谷稲荷神社
朱塗りの社殿。津和野城跡からか、弥栄神社裏から鳥居のトンネルをくぐって上る。

森鴎外旧宅・森鴎外記念館
文豪森鴎外(1862-1922)は津和野に生まれた。東京大学医学部を卒業後、軍医となりドイツにも留学。文芸に造詣深く、西欧文学の翻訳や創作活動を行った。著作や直筆原稿、書簡など2000点を収蔵。

SLやまぐち号
真っ黒な煙をはきながら客車を引いて走る蒸気機関車。優美なスタイルから貴婦人の愛称を持つC57。新山口から津和野まで62.9km、約2時間のSLの旅。

鷺舞
京都の八坂神社で行われていたもので山口を経由して津和野に入り600年の歴史がある。7/20.24.27に行われる。


日本海側の名高い古都。明治維新の際に多くの人材を世に送り、日本を近代国家へ転換させる大きな原動力となった土地である。かつての長州藩毛利氏の本拠地。1600年の関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍についた。しかしひそかに徳川方へ手をまわし、毛利不戦の結果東軍が勝てば、中国地方8国の所領はそのままとの約束を得た。しかしふたをあけてみると約束は踏みにじられ、8ヶ国のうち6カ国を削り取られ、広島城を本拠に秀吉の五大老のひとりとして権勢をふるった112万石の大大名毛利氏は36.9万石の外様大名に転落した。2ヶ国に追われた毛利氏は新しい本拠として周防の防府を選んだが、瀬戸内海の要衝なので、徳川幕府は毛利の富裕化を恐れ反対。山口も却下され、もっとも不便な萩に城をつくることになった。

萩城での新年賀式。藩初いらい代々にわたって奇妙な儀式が受け継がれた。元日の朝、本丸の広間に礼装した家臣たちが集まる。主席家老「今年はいかがいたされますか」。藩主「いまだ時期尚早であろう」。数十秒にしかすぎない謎の問答が263年間繰り返された、といわれる。

この問答はいったいなにを意味しているのか。家老のことばの意味は、「今年こそは恨みかさなる徳川幕府を討とうではありませんか。ご決心はいかに」。1864年、264回目の新年賀式、謎のような問答はもうなかった。藩の命運をかけた長州藩の行動は討幕運動へ発展し、明治維新へとつながっていく。

見どころ
城下町として栄えた萩の町は、400年ほど前に町割りがされて以来、地域ごとに特色ある発展をしてきた。夏みかんが実り、土塀から顔をのぞかせる様は萩を象徴する風景。

萩城跡と堀内周辺
毛利輝元が1604年に築城開始。260年の間、毛利藩政の拠点となった。石垣と堀が残る。堀内は古い土塀や白壁が残る。上級武士の住宅があった。益田家物矢倉や旧周布家長屋門の前の通りは雰囲気がある。

城下町
中、下級武士が住んでいた地域。幕末に活躍した高杉晋作や木戸孝允らの旧宅が見られる。豪商だった菊屋家住宅は、国内に現存する最古の大型町家のひとつ。豪壮な造り。菊屋家の一帯はかつての商人町。菊屋横丁は、菊屋家の白壁とそれに続く生垣などに風情がある。西郷隆盛、大久保利通と並ぶ維新の三傑、木戸孝允の生家があるのは江戸屋横丁。

松蔭神社と東光寺
吉田松陰を祭る。松下村塾、吉田松陰幽囚の旧宅などが見られる。東光寺は、毛利家の菩提寺。数百の燈籠に火がともる8月15日の万灯会は圧巻。

萩焼
温かい風合いの萩焼は400年前に作られ始めた。焼き上がりの感触は柔らかい。使い込んでいくうちに表面釉薬の貫入と呼ばれるヒビわれから水分が浸透し、器の色合いが変化し、使えば使うほど味わいが深まる。一楽、二萩、三唐津、と讃えられ、古くから茶人に愛され続けてきた。

山口
西国一の大大名、大内氏は関門海峡の制海権と朝鮮・中国との対外貿易で莫大な富を得ていた。その財政力を軍備の増強にあてると同時に京都を模した山口の町づくりに注ぎ込んだ。14世紀後半から200年もの間、山口は平和な西の小京都として発展した。

応仁の乱のため京都が焼け野原になると、西の京といわれた山口には学者や芸術家が難を避けてやってきた。水墨画で当代一流と全国に名の知れ渡る雪舟もそのひとり。応仁の乱がはじまる直前、大内氏の遣明船に便乗して明にわたり、3年間遊歴ののち帰国。応仁の乱のさなかの京都には帰らず、山口に入った。

見どころ
毛利氏の前の国主だった大内氏は貴族文化に憧れ、京をまねた町づくりを行った。

山口ザビエル記念聖堂
フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教に訪れて最初に布教許可を出したのが山口の大内義隆。現在の新聖堂は1998年に完成した。

瑠璃光寺五重の塔
大内義弘の菩提を弔うために1442年に建立。室町中期の建築としては比較的装飾が少なく簡素な作り。大内文化の最高傑作のひとつ。

湯田温泉
傷ついた白狐が温泉に浸かって傷を治したといわれる。松田屋ホテルには幕末の志士が集まった。

秋芳洞・秋吉台
いまからおよそ600余年のむかし、そのころすでにカルスト台地の秋吉台の下には巨大な洞窟が暗い不気味な穴を這わせていた。洞内にはごうごうと音をたてて水が流れている。

見どころ
岩がユニークな表情を作る草原と地下深く闇と神秘に包まれた大鍾乳洞。地上と地下の不思議な大景観。
秋芳洞
太古、海底にあった珊瑚礁が地殻変動によって地上にあらわれたもの。珊瑚礁は石灰岩となり、雨水に溶けて独特の風景を作り出した。石灰を含んだ雨水のしずくが何万年、何億年という時間をかけてさまざまな造形を生み出している。全長は10km、うち約1kmが観光コースとなっている。東洋一の大鍾乳洞。

秋吉台
カルスト地形と呼ばれる台地。広さ130k㎡という日本最大のカルスト台地。ゆるやかにうねりながらどこまでも続く草原には無数の石灰岩が柱のように突き出す。

下関・門司
狭いところではわずか1kmほどの海峡で隔てられている下関と門司港。壇ノ浦、幕末の下関戦争(1864年にアメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダの4か国艦隊が下関を砲撃し、長州藩を屈服させた事件)などの舞台とあって、歴史を彩る秘話、伝説が少なくない。

見どころ
下関は古い港町で、明治以降は大陸への玄関口として繁栄をきわめた。関門海峡を歩いて渡るなら関門人道トンネル(全長780m)。エレベータで海底まで降り、トンネル内を歩く。唐戸桟橋と門司桟橋を5分で結ぶ関門汽船は関門橋や下関、門司の町並みが見渡せる眺めのいい交通手段。

下関洋館めぐり
旧下関英国領事館、旧秋田商会ビル(下関観光情報センター)など、港町として栄えた下関にはかつての繁栄が偲ばれる洋館が残っている。

唐戸市場
セリの模様が見学できたり、魚介類の定食、寿司が食べられる。週末、祝日は1階が海鮮屋台街に変身。お祭りのような賑わいを楽しめる。

赤間神宮
いまの赤間神宮は、むかし阿弥陀寺という寺であった。この寺には壇ノ浦で平家が滅亡したとき、入水された安徳天皇の霊がまつってある。

しものせき水族館 海響館
潮流、波、うず潮など海の自然を再現した関門海峡潮流水槽が面白い。世界中のふぐの展示や、世界でも数体しかないシロナガスクジラの骨格標本などみどころいっぱい。イルカとアシカのショーも見られる。

長府
城下町として栄えた長府。細い路地と練塀が城下町のたたずまいを残し、散策にも楽しい。長府毛利邸は、1903年に完成した邸宅。庭園が美しい。

とらふぐ
今は1年中食べられるふぐだが、旬はやはり冬。全国の約8割が水揚げされる下関はふぐの本場。刺身、唐揚、フクチリ雑炊などで楽しもう。辛口の地酒を熱燗にして焼きヒレの上に注げば香り高いヒレ酒に。

門司港レトロ地区
古い洋館が一角に集中。明治から大正にかけて外国貿易の要衝として栄えた。門司港駅、旧門司三井倶楽部、旧大阪商船、旧門司税関といった当時建てられた西洋建築が見どころ。

アクセス
アクセス方法は何通りかあるが、飛行機で山口宇部空港、北九州空港もしくは福岡空港からアクセスするのが早くて便利だろう。新幹線なら新山口駅から。